所蔵作品検索作家名一覧
作家名索引
ギュスターヴ・クールベ / Gustave Courbet [ オルナン , 1819年 - ラ・トゥール・ド・ペイル, 1877年 ]
- ≫ 作家について
-
フランス東部、スイスに国境を接するフランシュ=コンテ地方の町オルナンに、富裕な地主の子として生まれた。1839年パリに出て、アカデミー・シュイスに通いながら、ルーヴル美術館でヴェネツィア派やオランダ派、スペイン派の巨匠たちの作品を熱心に模写した。1844年のサロンに初入選。1846年にはオランダに旅行。この旅はクールベの眼をレンブラントやハルスなどの17世紀オランダ絵画に向けさせ、その強い写実性と現実主義はクールベの画風展開に深い影響を及ぼした。《オルナンの埋葬》(1849年、オルセー美術館)、《石を割る人々》(焼失、1850-51年のサロンに出品)によってデビューしてからは、《水浴をする女たち》(1853年)、《今日は、クールベさん》(1854年、ともにモンペリエ、ファーブル美術館)、《画家のアトリエ》(1855年、オルセー美術館)などの野心作を次々に発表して賛否両論の渦を巻き起こす。1855年の万国博美術展に際し、主要作品の出品を拒否されたクールベは個展会場を設営して40点の作品を展示。そのカタログの序文には「生きた芸術(アール・ヴィヴァン)を創造すること、それが私の目的である」と記し、自ら「写実主義者(レアリスト)クールベ」と称した。この個展はほとんど黙殺される結果に終わるが、古典的理想化を排して現代性に立脚した絵画を、というクールベの主張は、次第に若手の芸術家や文学者の間に支持者を広げ、特に1861年のサロンでの《鹿の闘い》(オルセー美術館)の成功は彼の実力を世に認めさせることになった。これ以後、肖像画、裸体画、風景画、静物画などを多く手掛けるようになるが、1870年の普仏戦争に続いて成立したパリ・コミューンの芸術家総連合の会長を務めたことから、その敗北後コミューン政府によるヴァンドーム広場の円柱破壊の責任を問われてサント=ペラジーの牢獄に繋がれる。出獄後も莫大な賠償金を課せられて、1873年スイスに亡命。1877年にレマン湖畔のラ・トゥール・ド・ペイルで客死した。
(出典:国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006., pp. 160-161)
9件のうち 1~9件めを表示