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ペーテル・パウル・ルーベンス / Peter Paul Rubens [ ジーゲン , 1577年 - アントウェルペン, 1640年 ]
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ルーベンスは、ドイツのヴェストファーレン地方のジーゲンで生まれた。カルヴァン派信仰のため1568年にケルンへ亡命していた父のヤンはアントウェルペン市の司法行政官であったが、ケルンで罪を得て、ジーゲンに逼迫を強いられていたのである。ペーテル・パウル誕生の翌年、一家はジーゲンからケルンに戻った。父の死(1587年)後、母マリア・ペイペリンクスは子供たちを伴ってアントウェルペンに戻り、再びカトリックに帰依した。ここでルーベンスは「ローマ帰り」として有名であったオットー・ファン・フェーン、その他のもとで絵画を学び、1598年、21歳の時、アントウェルペンの画家組合に親方画家として登録された。1600年、イタリアに旅立ち、マントヴァのゴンザーガ公に仕えながら古代彫刻やルネッサンスの巨匠たちの作品を研究して8年間をイタリアで過ごした。1608年、母危篤の報に急遽ローマから帰国したルーベンスは、翌年アントウェルペン在住のまま、ブリュッセルのスペイン領ネーデルラント総督アルベルト大公の宮廷画家に任命された。1609年、32歳の画家は、兄嫁の姪に当たる17歳のイザベラ・ブラントと結婚して、妻の実家にアトリエを構える。
初期の代表作、アントウェルペン大聖堂のための祭壇画《キリストの十字架降下》が完成された頃(1614年)からルーベンスのバロック様式が成熟してくるが、それ以降、1628年頃までの時期には、アトリエの助手たちを使った大規模な制作活動が展開され、戦闘図や狩猟図といった、激しい動きをもつ作品が数多く描かれた。フランスのルイ13世の母マリー・ド・メディシス皇太后から依頼された、絢爛たる色彩に溢れる大連作「マリー・ド・メディシスの生涯」が完成した翌年(1626年)、17年間の幸福な結婚生活を共に過ごしたイザベラが35歳の若さで他界し、ルーベンスはその哀しみをまぎらすかのようにますます外交生活に没入していった。1628年にはイギリスとスペインの和平問題に関して大公妃よりマドリードに派遣され(この時、29歳のべラスケスと親交をもつ)、翌年、今度は正式の外交使節としてイギリスに派遣されている(1630年チャールズ1世からナイトに叙せられる)。ルーベンスはスペイン滞在中に、王室所蔵のティツィアーノの作品を熱心に模写し、それによって20年前のイタリア時代には習得できなかった、ティツィアーノ芸術の「絵画的」な価値を真に認識することになった。以後、「絵画的」で感覚主義的な作風が展開ざれることになる。軽快なロココ的要素が出てくるのも、晩年の様式の特色である。
ロンドンから帰国した1630年、53歳の画家は、16歳の少女エレーヌ・フールマンと再婚し、以後、彼は彼女をモデルとして官能的な魅惑に溢れる女性像を繰り返し描き続けた。1635年、時々激しい痛風に悩まされていたルーベンスは、アントウェルペン郊外のステーンに城館を買い求め、田園の静かな生活を楽しむようになるが、それと共に以前からの風景描写への情熱が高まり、数多くの風景画を制作した。1640年5月30日、ルーベンスはフランドル・バロック最大の画家として夥しい数の作品を遺して、栄光に満ちたその生涯を閉じた。62歳であったが、まだ創造力、名声共に衰えていなかった。
(出典:国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2009., pp. 176-177)
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