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オーギュスト・ロダン / Auguste Rodin [ パリ , 1840年 - ムードン, 1917年 ]
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1840年にパリのつつましい家庭に生まれた。最初、「小教室(プチ・デコール)」(のちの装飾美術学校。「大教室(グラン・デコール)」―エコール・デ・ボザール―に対してこう呼ばれた)で学んだのち、彫刻を志してエコール・デ・ボザールを受験するが失敗。1863年、最愛の姉の死に絶望し修道院に入ったが、まもなく自分の天賦を悟り、家に戻った。1864年、装飾的な作風で世を風靡していたカリエ=ベルーズのアトリエに入り、その助手としてさまざまな建築装飾や小彫刻を手掛ける。傍ら、夜は自らの制作に没頭した。古代彫刻研究の跡を示す《鼻の潰れた男》がサロンに落選、生涯の伴侶となるローズ・ブーレと出会ったのもこの頃である。1870年普仏戦争に召集され、翌年、パリ・コミューンの騒乱からのがれて、ブリュッセルのカリエ=ベルーズのもとに赴く。1875年にはイタリアに旅行し、ミケランジェロの作品に深い感銘を受けた。翌年、ブリュッセルおよびパリのサロンに《青銅時代》(石膏)を出品、激しいスキャンダルを巻き起こした。続いて1880年のサロンには《説教する聖ヨハネ》が入選、同時に出品されたブロンズの《青銅時代》は三等賞を得て国家買上げとなった。この頃より、ゴシック聖堂研究のためのフランス周遊を始めている。同年、美術省より装飾美術館の扉の制作を依頼され、以後制作の大半は、この作品《地獄の門》のための構想に費やされることとなった。
1889年の万国博覧会に際して、クロード・モネとの二人展を開いて成功を収めたロダンは、多くの肖像や記念像の制作にも精魂を傾けるようになった。とりわけ、《カレーの市民》(1895年)、《バルザック像》(1898年)などにおいて、伝統的な彫刻の形式と隔絶した力強い独創的な様式を示し、賛否さまざまな論争を人々の間に引き起こした。しかしながら、1900年の万国博覧会では、アルマ広場にロダンのための特別館が設けられ、《考える人》など170点あまりが展示されて、その名声は決定的なものとなった。1903年にレジョン・ドヌール勲章を受け、翌年には国際美術協会長に就任するなど、国民的栄誉を与えられる一方、リルケ、イサドラ・ダンカンなど、多くの文人、芸術家とも交わり、更にはパリ社交界の一員ともなった。ヨーロッパ各地で展覧会や講演を行なうなど、恵まれた晩年を送るが、1916年病床に付した。まもなく小康を得たものの、制作は断念、ロダン美術館の設立に専心した。1917年パリ郊外のムードンのアトリエにて歿し、ここに埋葬された。死後、このムードン及び、パリの宏壮な自邸オテル・ビロンが国立ロダン美術館となった。
(出典:国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006., p. 177-178)