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作家名索引
オノレ・ドーミエ / Honoré Daumier [ マルセイユ , 1808年 - ヴァルモンドワ, 1879年 ]
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ドーミエはマルセイユのガラス職人の子として生まれたが、父が詩人を夢みてパリに上ったことから、彼も幼少の時パリに移り住み、使い走りのような仕事で家計を助けつつ、都会風俗に精通していった。1822年に彫刻家アレクサンドル・ルノワールの弟子となったが、発明されてまもない石版画に対する関心を次第に深め、1823年頃にはそのための本格的な修業を始めた。その後、諷刺ジャーナリズムの帝王となるシャルル・フィリポンに天分を見出され、1830年の「七月革命」の前後から『シルエット』、「カリカテュール』、『シャリヴァリ』などの諷刺紙に作品を次々に発表して行った。1831年、金権国王ルイ=フィリップを大食漢のガルガンチュアになぞらえた諷刺版画が当局の摘発を受けて投獄されたが、出獄後はいっそう鋭い批判精神をこめて《立法府の腹》《トラスノナン街1834年4月15日》などを発表した。1853年に『カリカテュール』が発禁処分になり直接的な政治批判が事実上不可能になったのちは社会風俗の分野に活動の場を求め、ブルジョワの拝金主義を諷刺した連作《ロべール・マケール》で大成功を収めるなど、その生涯に約4000点の石版画を制作し、民衆の怒りや絶望を透徹した目をもって軽妙に表現した。1848年頃からは油彩画にも取り組むようになり、晩年には《クリスパンとスカパン》(1864年、オルセー美術館)、《三等列車》(メトロポリタン美術館)、さらにドン・キホーテに取材した多くの傑作を生んだ。諷刺画といういわば一時的で皮相的なものから始まったドーミエの芸術がその晩年に輝かしい普遍性にまで到達したことは何よりも彼の天才と洞察力の深さを物語るものと言えよう。しかし反面、その芸術的深化は一般の人々の趣味から離れて行くことになり、晩年の生活は悲惨であった。1872年頃からは視力を失い始め、コローなどの世話でパリからヴァルモントワに移り、孤独の中でその生涯を終えた。
(出典:国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2009., p. 166)
19世紀フランス最大の風刺画家。額縁職人の子としてマルセイユに生まれ、幼少時に家族とともにパリに移った。正規の美術教育を経ず印刷工房の徒弟からはじめて、1830年に風刺雑誌『シルエット』で風刺画家としてデビューした。七月王政誕生直後、シャルル・フィリポン(1806-1862)が刊行した共和主義的風刺新聞『カリカチュール』において、ドーミエは人間の本性を暴き出す圧倒的な描写力を武器に、国王や議員を始めとする諸権力を徹底的に風刺し、一躍その名を轟かせる。検閲の強化により政治風刺を制限された1830年代末になると、社会風刺・生活風刺に転向し、その題材をパリそのものに求めた。同じくフィリポンが立ち上げた『シャリヴァリ』を主な活動の舞台として、大都市に息づく様々な職業・階層の人々を、時には面白可笑しく、時には共感をもって活写した。晩年にはふたたび政治風刺に回帰、プロシアとの戦争を目の前にした祖国の危機を、多様な寓意像に託して警告した。このように、1872年に引退するまでの40年あまりの間に、ドーミエは4000枚ものリトグラフと1000枚の木版画を制作したのである。一方でドーミエはまた、写実主義の画家としてもクールベとともに美術史上重要な位置を占めている。《洗濯女》《三等列車》(ともに1860年代)などに代表されるように、パリの市井に生きる民衆をカンヴァスに力強く描出した。
(出典:「芸術家とアトリエ」展, 2006., )