ルネサンス風の金の建築モティーフに縁取られ、中央でふたつに仕切られた画面の左右に、『黄金伝説』に所収された使徒大ヤコブの物語場面が配置される。左側では、悪魔たちによって連行された魔術師ヘルモゲネスを大ヤコブが解放しており、複雑な構造をもつ空想的な建物がその背景に描かれている。一方、右側には、キリスト教の教えに帰依したヘルモゲネスに自らの杖を護符として与える場面が木下に表わされ、奥の風景の中には、魔術の本を海に捨てるヘルモゲネスの姿も小さく挿入されている。科学的調査の結果、本作品が初期フランドル絵画に典型的な画材と技法で描かれていることや、当初はより鮮やかな色彩であったことが明らかになっている。また、制作中に多くの描き直しがなされたことも判明し、特に右側の場面には、横向きで向き合っていた大ヤコブとヘルモゲネスを正面向きに変更するという大きな修正が確かめられた。(1) 本来は裏面にも絵が描かれていた可能性が高いが、この面は削られてしまっており、確認できない。本作品は、現在ブリュージュのフルーニング美術館が所蔵する板絵と、同じ祭壇画の一部であったと考えられる。1525年の年記をもつこの板絵は、本作品とほぼ同サイズで、同様の金の建築モティーフで区切られた画面の左右に、新約聖書に基づいて、大ヤコブと弟聖ヨハネの召命と、息子たちの優遇を願い出たふたりの母を諫めるキリストを描く。様式の類似や赤外線で検出される下書きの特徴が似ていることからも、両作品が同じ祭壇画に属していた可能性は高い。金の建築モティーフによる装飾は、ランスロート・ブロンデールら16世紀前半ブリュージュの画家たちが好んだもので、祭壇画が同地で制作されたこと示唆する。一方、芝居がかった登場人物の身振りや空想的な建物などには、アントウェルペン・マニエリスムとのつながりが見て取れ、茶、緑、青と色調を変えつつ後退していく空間の演出や変化に富んだ自然描写には、ヨアヒム・パティニールらの風景表現の影響も認められる。聖人信仰が盛んであった16世紀初頭のフランドルでは、聖人の生涯の諸場面を描いた祭壇画が数多く制作されたが、東京とブリュージュの作品が属していた祭壇画は、複数のパネルから構成され、大ヤコブに捧げられたものであったと推測される。（大ヤコブと聖ヨハネ双方に捧げられた可能性もある。）その本来の構成を考える上で、他のごく一部の弟子たちとともに、ヤエルの娘の蘇生やキリストの変容の奇跡に立ち会うことを許されたという、聖人の生涯におけるきわめて重要なエピソードが省略されている一方、母による優遇の願い出という彼にとって不名誉で、かつ非常に珍しいエピソードがわざわざ選ばれていることは興味深い。この際キリストは謙譲と献身を弟子たち一同に説くが、本祭壇画は、これを大ヤコブの使徒としての姿勢に大きな影響を与えた出来事と捉えているのであろうか。また、キリスト変容の場面が省略される一方、ヘルモゲネスを改心させた奇跡の物語の表現に2場面が当てられていることも注目される。すなわち、本祭壇画は、大ヤコブがキリストと行動をともにしていた時代よりも、キリストと死別後の使徒としての活動や奇跡を物語ることに重点を置いたものだったかもしれない。現在、インディアナポリス美術館には、まさにそうした伝説上の12場面から構成された、15世紀末フランドルの通称「聖ホデリーフェ祭壇画の画家」による祭壇画が所蔵されており、本祭壇画本来の姿を考える上で興味深い作例といえる。美術史家フリートレンダーがオランダ美術史研究所に遺贈した写真と裏のメモによると、本作品は、ブリュージュの作品とともに、1909年当時ロンドンのオールド・ボンド・ストリート39番地に位置していた画商ファー（Farr）のもとにあった。その後ブリュージュの板絵は、1911年にパリのクラインベルガー画廊のカタログに掲載されたのち、翌1912年にフルーニング美術館に入っている。同カタログに本作品の掲載はなく、この時点で2点はすでに別になっていたようだ。国内のコレクターに所蔵されていた本作品は、長らく美術史家たちの視界の外にあったが、国立西洋美術館による購入を機に改めて「発見」されることとなった。 (1) 高嶋美穂「《聖ヤコブ伝》（作者・制作年不詳）に見られる技法について」『国立西洋美術館研究紀要』23号、2019年、pp. 35-46。（出典: 国立西洋美術館開館60周年記念　松方コレクション展. 東京, 国立西洋美術館, 2019. cat. no. 11）